Sleeping Bera


by てんてんこまる
 夜は、おやすみ熊が連れてくる。深い大きな闇は、つやつやして暖かく、ふ
かふかの布団にくるまって、大好きな人の蜜の香りのする寝息、いびきなんか
もそういうものだろう。

 おやすみ熊は、人食い熊。

−ガリガリガリ−
 あれは、僕の頭をおやすみ熊がかじる音。明け方、やっと訪れた眠気の中に
アイツはやってくる。ズキズキと痛む頭を押さえて、僕はむっくりと起き上が
る。朝だ。だるい体を無理矢理起こすため、コーヒーを入れる。インスタント
のやつだ。ミルクがないので、ブラックのまま。あの人食い熊の体の色と同じ
だと思うと、かじられたところが、また痛くなってくる。トーストにマーガリ
ンをぬって食べる。
「私が一緒にいると、眠れないのでしょう?]
非難めいたセリフを残して、彼女が出ていった。
 コーヒーに入れる牛乳は、僕はちょっとでいいが、彼女はたくさん入れる。
僕一人では、飲みきれないので牛乳は買っていない。あのマーガリンと一緒に
ぬるジャムもどこに売っているのか分からない。甘いだけで、いちごの香りな
んてちっともしないあの味が、僕は大好きだった。
 僕の朝食はとてもまずく、朝は、とても目覚めが悪い。おはようのキスもな
い。
 でも、夜は好きだ。彼女のことを思い出す夜は好きだ。風呂から上がって、
彼女が買ってきてくれたサックスブルーのパジャマを着る。今日一日あった出
来事を彼女と話す時間。僕は眠れないけれども、彼女と一緒の布団で迎える朝
も、大好きだった。
 今夜も、眠りそうになると、アイツの気配がした。僕は、もう、悲しいくら
いに腹が立っていた。そうだ、アイツと対決しよう。僕だって、そんなに弱虫
じゃない。彼女のことは、アイツだけのせいじゃないさ。それは知っている。
そんなことは、わかっているけれども、僕が苦しめられているのは確かさ。僕
は、僕を守らなくっちゃいけない。僕は、暗い、闇を、目を凝らして、じっと
見詰めた。暗い、闇の、中に、アイツはいた。でも、僕は、困ってしまった。
アイツは泣いていたんだ。
「おい、おやすみ熊。」
できるだけ、大きな声で怒鳴ったつもりだったが、ちょっとだけ、優しそうに
聞こえたのかもしれない。アイツは振り向くと、大きなお目目から、涙をいっ
ぱい、ぽろんぽろんとこぼして泣く。
「ああ、私はもう、あの子達には、会いに行かれない。私には、子供がおるの
です。それは、それは、かわいくて、どんぐりのような鼻で、私のにおいをか
いで、たんぽぽのような、お手手で私の体を触るのです。それから、私には南
天の実よりもはじらいのあるかわいい奥さんがいます。ああ、あの人にも、私
は、もう会いに行かれないのです。」
僕は、おやすみ熊のことがかわいそうになってきて、今度は、本当に優しい声
で、聞いた。
「何で、会いに行かれないんだい。」
「大切なお役目があるのですよ。」
あきれた。熊にさえ、大切な役目があるって言うのに、僕には何もない。おや
すみ熊の涙は、川になって、僕を押し流した。僕は流されながら、もうどうな
ってもよくなった。誰の役にも立たない僕だが、アイツのためになってやるこ
とはできるんじゃないか。
「なあ、かわってやれないか。」
涙の川が乾くと、そこは、たんぽぽの野原だった。太陽の光が眩しくて、僕は
目を開いていられない。目覚めると、朝なのだった。
 僕らの約束は、夢なんかじゃなかった。僕に、一日おきの眠りが訪れるよう
になったのだ。そうして、何よりもすばらしいことに、彼女が戻ってきたのだ。
僕は、1日ごとに眠り、目覚めている夜は、一晩中、彼女の寝顔を幸せな気持
ちで見ている。おやすみ熊の大切な役目というのは僕の眠りだったんだよ。い
や、もしかしたら、不眠で苦しむすべての人のためになっているかもしれない。
なんて思うと、僕にも、大切な役目があるんだという気になってきて、元気が
沸いてくるのさ。彼女だけは、「あなたのいびきがあんなにうるさいなんて、
知らなかったわ。」あくびをしながら、おはようのキスをする。彼女は、あく
びをした顔だってかわいいさ。僕の朝食の好みも知っている。
 深い大きな闇は、つやつやして暖かく、ふかふかの布団にくるまって、大好
きな人の蜜の香りのする寝息、いびきなんかもそういうものだろう。おやすみ
熊、おやすみ熊、君は元気でいるかい。あのたんぽぽの野原で走り回る子供た
ちと、かわいい奥さんと笑う、君の夢を見たよ。
F I N

トップにもどる