コーヒ−


by てんてんこまる
 僕は、僕を取り囲むすべてのものを、耳を澄ましてじっと見た。するとそれは、
すぐに見つかった。小ヤギが僕を見ていた。親とはぐれてしまったのか、それと
もはじめから親が誰かなんてわからずに生まれたか、子ヤギはたった1匹でたっ
た1人の僕を見ていた。その凛とした、まるではっきりとしたまなざしに、僕は
くぎづけになった。
 僕が子ヤギと食事をとろうとパンにゆでたまごなんかをはさんで食べていたり
すると、コーヒー色のその瞳で、何でもわかっている風な、何にも知らないよう
な、そんな瞳で、そうして僕が食べるのをおしまいまで見ると、自分も時間をか
けた食事をする。サンドイッチが食べたいのかと思い、あげてみたが、そんな物
は食べなかった。子ヤギは花を食べた。草も食べるが、主に花を食べた。春には
春の花を、夏には夏の、秋には秋の、冬には、雪を少し食べた。時には、何を食
べているのかわからないが、ただ口をもぐもぐ動かしていることもあった。夢と
か、口には出せない気持ちだとか、そういった、形にはならないものを食べてい
るんだろう。
 夜は家に入れて、一緒に眠ったが、実際眠っていたかどうかわからない。僕が
目を開けている間は、ずっと目をあいている。いつの間にか眠ってしまった僕が、
朝、目を覚ますと、子ヤギはいつも何かを見ていた。朝を見ているようだった。
子ヤギの目には朝がうつっていたが、子ヤギは、何か別のものを見ていたかもし
れない。
 子ヤギは、ほとんど鳴かなかったが、時々ヤギらしい声で、鳴き続けることが
あった。言葉のように聞こえることもあった。「いいよ。」とか「だめだ。」と
か「わかった。」とか、そういう言葉だったような気がするが、僕がそういって
ほしいと思っていたときだけかもしれない。誰かに言っているようでも、独り言
のようでもあった。ヤギ同士で、どこか、遠く離れた友達と、会話をしていたの
だろう。


 夢を見た。ヤギが、鳴いていた。僕らは泳いでいた。ヤギは案外泳ぎが上手な
動物らしい。僕らはミルクの中を泳いでいるのだった。ヤギのコーヒー色の目は
にじまない。ミルクコーヒーにはならない。いつまでも、いつまでも澄んだコー
ヒーの瞳で、まっすぐに僕を見ていた。染まらない、誰にも何にも染まらない。
自分だけであなたを見ていると、そしてそれはとても大切なことなのだと。わか
った、わかった。わかった、わかったと僕はいった。そんな夢だった。


 しかし、一年ほどたいせつに育てていたヤギが、理由もわからずに死んでしま
った。メスだったと思う。子供も生まない子ヤギのうちに、死なせてしまった。
何かの病気だったのだろうか。それともヤギはこんなあっけなく死んでしまう動
物なのかもしれない。
 両方の目をそっとつむって、「ようくわかってますよ。」というような顔をし
て、かわいらしい死に顔だった。子ヤギが目をつむった顔をはじめて見た。


 僕ら、あのとき出会ってしまった。この出会いは、一生忘れない。出逢えて良
かった。僕は、コーヒーを飲む。ミルクは入れない。そうやって、あのコーヒー
色の瞳を思い出す。あの凛としたまるではっきりとした瞳でくぎづけになったあ
のときを思い出す。
F I N

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